Triple negative乳ガン治療の難しさ
ここでは「乳がんの種類」はもう読んだ、という方に、さらに突っ込んで解説してみようと思います。
私たちのホームページ、そして乳腺外科の分野でもっとも読まれているのが「乳がんの種類」のページです。乳がんにはさまざまな種類があることをご存じでない方がここで知識を得ることは当然ですが、Triple negative(トリプルネガティブ=TN)乳がんに罹患され、治療に難渋される中でセカンドオピニオンを求めて訪れておられる患者さんも多いのではないかと推察します。
TN乳がんは日本語訳すると“3つもネガティブ”ですが、重要なのはER(エストロゲンレセプター)とHER2(ハーツー)の二つの標識を持たない乳がんということなので、正確には“ダブルネガティブ”と言えます。乳がんで効果の高い薬が狙う標的を二つとも欠いているため、当然悪性度も高い傾向があり、治療に難渋することが多いのです。
がん細胞は体の設計図である遺伝子DNAが故障して起こります。ただがん細胞も正常細胞も、もともとは卵細胞一つから分裂した細胞であり、同じ設計図を本来持っています。ですので、両者に大きな違いはありません。抗がん剤でがん細胞をたたくと正常細胞もダメージを受け、このため副作用が出る。また痛めつけられた正常細胞が回復するために使う能力をがん細胞もまた持っているため、正常細胞が元気になり、体が元気を取り戻すとがん細胞もまた元気になる、ということなのです。
理想的な抗がん剤とは、正常細胞にはまったく影響せず、がん細胞だけに効く薬ですが、両者に差がないために実際には存在せず、もしあれば副作用は理論的にはゼロになります。
ただし、それに近い薬剤はすでに臨床で使われています。先に述べた二つの標的を狙う薬剤です。
ER(エストロゲンレセプター)は女性ホルモンを信号として受け取るための細胞の受け皿です。女性ホルモンは性ホルモンなので、子供を作ることを考えなければ理論上は完全に0になっても大きな問題は起こりません。体中の女性ホルモンを0にして、女性ホルモンを受け取るレセプターを持っている細胞はがん細胞も正常細胞もみんな眠ってしまったとしても生きていくのには何も困りません。閉経期に見られる更年期障害や、ホットフラッシュなど軽い副作用にとどまるのです。
HER2(ハーツー)は胎児の頃はどんどん細胞を増やし、心臓を始め、組織を作るための信号を受け取るレセプターです。だから胎児のころにこのHER2がだめになると、生まれてくることすらできません。そして成人になってからも心臓をメンテナンスするのに役立っています。とはいえ、成長の止まった大人にとっては、心臓にダメージが加わらない限り、また何年も長期に使い続けない限り、生きていくのにあまり影響しません。
乳がん細胞はこの二つのレセプターを持つもの、持たないものがあります。もし体に存在している乳がん細胞がすべて均一にこれらのレセプターを持っていれば、私たちはこれを狙ってダメージを与える方法をすでに持っているため、正常細胞にほとんどダメージを与えずに、がん細胞だけにダメージを与えることが可能です。的を狙って攻撃する標的治療は、絨毯爆撃のような過去の薬剤と異なり、副作用が軽く、効果が強いのです。ところがTN乳がんはこの代表的なレセプターを二つとも持ちません。このため従来の絨毯爆撃薬剤に頼らざるを得ず、治療に難渋することが多くなるのです。副作用に苦しむ方が多いのも、このためです。
Triple negative乳がんは実は1種類ではない!?
ここからは、前述の内容はすでに理解されていて、さらに知識を求めてきた患者さんのための記載になります。
TN乳がんの治療において、2015年ASCO(米国臨床腫瘍学会)で重要な研究発表がなされました[1]。ここではその発表から重要なスライドを1枚引用します。
(Presented By Antoinette Tan at 2015 ASCO Annual Meeting)
ここではTriple negativeをその性質や、遺伝子の解析からさらに細かく分類していて、
1.Basal like 1 2.Basal like 2 3.IM 4.M 5.MSL 6.LARの6つの分類を示しています。
Basal Like 1と書かれている一番上の青い丸の横に四角でPARP inhibitorと書かれているように、全ての丸(分類)には矢印と四角がついています。四角の中に書いてあるのは、その分類に対応する有望な治療法です。実は2017年現在、ここで示されたすべての治療法が手に入ります。ただ、保険適応ではないものも書かれており、必ずしも標準治療として確立していないものも記載されています。こうして言えばもうTN乳癌は解決したように見えますが、ただER陽性乳癌にホルモン剤を使用しても根治するとは限らないように、これらの分類に応じてその薬剤を使っても根治するとは限りません。標的治療なので「より副作用を少なくして、より高い効果が期待できる」にすぎないのです。
TN乳癌の中のさらなる分類と対応する治療
TN乳がんの中のBasal like 1は、BRCAと呼ばれる蛋白の設計図であるDNAに生来異常があるタイプです。
BRCA遺伝子はアンジェリーナ=ジョリーさんという女優さんで有名になりました。ただBRCAはがんを作る遺伝子ではなく、遺伝子に異常が生じたときに“修理をする”蛋白の名称です。がんができないように見張ってくれているタンパク質ですが、それが生まれつきの遺伝子の異常で壊れているため、がんが発生しやすいのです。
体を作っている細胞の遺伝子は実はしょっちゅう傷ついています。宇宙からくる電子線や自然放射線でも傷つきます。こうして傷ついた細胞がすべてがんになっていたら、乳がんどころか成人まで生きられません。生まれつきBRCAの異常がある人の細胞は、BRCAの代わりにPARPという別のタンパク質を代用して遺伝子を修理しています。
こうした人に乳がんが不幸にして発生したとします。TN乳がんですから、ホルモン剤は効果がなく、抗がん剤で治療することになります。抗がん剤は乳がん細胞のDNAを狙って破壊するのですが、PARPが乳がん細胞でも活発に働いて抗がん剤からがん細胞を守ってしまう。正常細胞を守る働きががん細胞もまた守ってしまうのです。
そこでこのPARPを阻害しておいて、抗がん剤を使う方法が考えだされました。BRCA遺伝子に異常があることはすでに検査が可能です。有効なPARP阻害剤も開発されました。これで標的に対してそれを調べる検査方法と治療法が揃うことになり、Basal-like 1に対しては標的治療が確立したことになりました。
IMとされた分類では別名髄様がん(Medullary breast cancer)と記載されています。もともとTN乳癌の中では予後が良いことが知られています。この種類の腫瘍の近傍では腫瘍浸潤リンパ球(TIL)と呼ばれるがんをやっつけようと集まってくるリンパ球がたくさん認められます。しかしがんは存在していますので、このがん細胞はがんを攻撃するリンパ球を無力化する力を持っていることもわかります。これに対してPD-1あるいはPD-L1抗体と呼ばれる、リンパ球の無力化をブロックする薬が近年開発されました。髄様がんであるという標的と、PD-1抗体という治療法が揃い、ここでも標的治療が確立しています。
このように、この図では他の4つのがんに対しても現在入手可能な治療方法が1:1で示されていて印象的です。少なくともTN乳がんであり、これら6つの特徴のうち一つに当てはまるならその治療法を試してみたくなります。
ただ現実はそれほど単純ではありません。たとえばIMにはBRCA異常はないのでしょうか?両立していてもおかしくありません。2015年から2年たった今でもTN乳がんは乳がん治療の大きな課題です。そのことがTN乳癌はそれほど単純ではなく、またここで示された対応する治療をすれば根治するわけではないことも示しているでしょう。実は様々な種類が混じって存在するTN乳癌をきちんと分類して、効率よく叩けるよう可能性が示された段階と言えるでしょう。
OlympiAD試験が示したこと
2017年今年の米国臨床腫瘍学会(ASCO)では、“始まりの終わり”と題されたBasal like 1 TN乳がんのための発表がありました。前述したPARP阻害剤(Olaparib)を実際に臨床で用いた治療結果が示したもので、OlympiAD(オリンピアド)試験と呼ばれます。
TN乳がんの中でBRCA遺伝子異常を伴う方は9~28%存在しています。
上でもご紹介したようにBRCAはがん抑制遺伝子(から作られるタンパク質)で、遺伝子を修理する遺伝子です。BRCAが壊れているから遺伝子が修理できず、がんが発生しやすくなるのですが、BRCAが働かない状態でのがん細胞を調べると、PARPというタンパク質がたくさん働いていることがわかっています。PARPもBRCAとは別の方法で遺伝子を修理する働きを持っています。
がんの遺伝子は実は微妙な状態で、遺伝子が故障しているけれど、死んでしまうほどではありません。中途半端に壊れているから生きているのです。BRCAが働かないので、遺伝子が中途半端に壊れている細胞は修復できず、もう一押しして一線を越えさせると遺伝子が完全に壊れて死んでしまうのですが、PARPが何を思ったのか死なない程度に支えて生かしていることが分かりました。また正常細胞ではBRCAがこわれていても、PARPにそれほど頼っていないこともわかっています。そこでPARPを邪魔しておいて抗がん剤を使い、がん細胞の遺伝子が壊れていくのを放置するようにしたら死んでいくのではないか、それがPARP阻害剤(Olaparib=オラパリブ)です。
OlimpiAD試験ではBRCA異常がある乳がん患者さんで転移がある方をまず二つに分けたました。医師が今まで通りの抗がん剤を使用して治療した群(標準治療群)と、Olaparib治療群です。
結果としてOlaparibを使用した群では、標準治療群では進行したり亡くなったりしてしまう確率を0.43倍まで有意に抑制することがわかりました。つまりある時期で見たとき、今まで通りの標準治療群では100人の方が進行したり亡くなったりしているとしたら、それを43人まで抑えたことになります。(Presented by Mark Robson, at 2017 ASCO Annual Meeting)。
そして心配された副作用も貧血(16%)や白血球減少(9%)など、症状が出にくいものが主で、それほどひどくないことも証明されました。実際QOL調査では主治医が選んだ標準治療よりも優れた結果となっています。
この発表ではTN乳がんではない群であっても、BRCAに異常がありさえすれば同じように有効であることが示されました。つまりこのOlympiADは第3の標的を示したと言えるでしょう。ERの有無、HER2の有無によって今までは大きく4つに分かれていた乳がんをさらにBRCA異常の有無を加えて8つに分けたことになります。当然今までの治療に、選択肢が一つ加わるので、ますます複雑になることが予想されます。
少なくとも今後は、いままでの標準治療で対応できないTN乳がんがあれば、BRCA異常の有無を調べることが“標準”となり、PARP阻害剤を使用することもまた“標準”治療となっていくことが予想されます。
ASCO2017ではこれを“The End of the Beginning”「始まりの終わり」つまりもはや有効性を議論している時期は終わった、 これからは実際に治療に応用してさらに研究を進めていく、と高らかに宣言したのです。
日本ではまだ保険適応ではありませんが、これが様々な準備期間を経て、現実に病院で使用できるようになるのを皆さんとともに楽しみに待ちたいと思います。
1. Lehmann BD, Bauer JA, Chen X, Sanders ME, Chakravarthy AB, Shyr Y, et al. Identification of human triple-negative breast cancer subtypes and preclinical models for selection of targeted therapies. J Clin Invest. 2011; 121: 2750-67.