Japanese Red Cross Coeirty
No.227 9年の間 ありがとうございました
院長職、時間を忘れて努めてきました。仕事中ふと頭の中に空白が現れ、手持ち無沙汰で物思いに耽ることがあります。このような時、院長として、社会人の1人として、人として、佐藤という個人として、思うところを日記の場を借りて気ままに描き続けてきました。
まさに徒然であり、日記でした。心の支えとなりました。ここで一旦筆を下ろします。
4月から統括管理監として病院運営に今まで同様精一杯努めます。9年の間ありがとうございました。
2022年 3月 29日 姫路赤十字病院 院長 佐藤 四三
No.226 大先輩からの贈り物
姫路赤十字病院 秋景
宮下正弘先生から姫路赤十字病院の秋景を描いた絵を戴きました。宮下先生は秋田赤十字病院の名誉院長で、わたしも含めての赤十字病院長にとっては大先輩になられる方です。現役時代大きな手腕を発揮され日赤グループに貢献されたといろんな方から話を聞かされております。直接お会いしたことはありませんが、尊敬しています。その先生が病院のスケッチ画を送って下さり、思いもよらない事であり、感激しております。病院創立100周年記念の時に描いた絵と添書きがありました。また当院鍋山名誉院長の油絵に深く感動したことも書かれていました。両先生は名誉院長の会で今でも親交が続いていると聞いています。“絵”が取り持った縁でしょうか。
わたしは院長連盟通信の編集長を務めています。そのため通信誌には毎回寄稿文を投稿しています。この表紙を飾るのが宮下先生の絵です。わたしに絵心はありませんが、明るい色調で、穏やかで暖かみがあり、いつも心を和ませてもらっています。絵のような気心のある人柄なのであろうと想像しております。わたしの寄稿文が先生の目に留まり今回の運びとなりました。“院長連盟通信”が取り持った縁でしょうか。わたしには名誉のことです。
人と人との繋がりはいつ何処で生じるかは誰にもわかりません。繋がりは良いものであって欲しい。しかし常に良いものとは限りません。それ故に日頃の行動を大切にしたいものです。
“絵”は姫路赤十字病院で大切に引き継いで参ります。
2022年 3月 10日 姫路赤十字病院 院長 佐藤 四三
No.225 複雑怪奇
北京オリンピック、その後のロシアによるウクライナ侵略戦争とここ1ヶ月の間に、国際社会にとって大きな出来事が起きてしまいました。誠に理解し難いものであり、複雑怪奇と言えます。
北京オリンピックでは、誤審問題、ルール違反問題、ドーピング疑惑問題など、様々な問題が浮き彫りになり混乱した五輪となってしまいました。残念です。選手は最高の力を発揮していましたし、少なくともそのように努めていました。しかしながら審判の下した結果に対して、異論を呈する状態が、多々見受けられました。スポーツ競技においては審判の判定が全ての大原則があり、審判は誇りを持ってジャッジし、選手はこれに従うのが当然です。自国第一主義が奥底にあるのか感情を表面に出し反論する姿はあまりにも潔くなく残念と言わざるを得ません。今回の出来事の真実を明らかにしていただきたい。そしてオリンピックのあり方、スポーツ競技のあり方を再考していただきたい。
一方でカーリングでのチーム力、明るさはわたしたちを楽しませてくれました。またスノーボード等で、特に若者たちが国境を越えて交流している姿はこれからのスポーツの明るい未来を示しており、若者たちに期待します。スポーツは楽しいものです。
もう一つの重大な出来事は戦争です。ロシアによるウクライナ侵略戦争はあってはなりません。強大な国、圧倒的な軍事力を持つ国が侵略するなど如何なる理由があれ決して許すことはできません。してはなりません。
人類、国際社会が歴史から学び、決して起こしてはならないと理性では分かっていながら、起こってしまいました。
わたしたちはここ1ヶ月で2つの残念な経験をしました。人類が劣化し始めているのではと思われて仕方ありません。わたしはこの日記で政治的なことは記さないと決めておりましたが、今回のことはあまりにも複雑怪奇でありあえて書きました。
院長日記No.6『ならぬことはならぬものです』を再読ください。江戸時代会津藩では藩校日新館に入る前、年長者を敬う心を育て、自らを律することを覚え、団体行動に慣れる為の幼年者向け躾教育を子弟たちが実践する上での決まりごととして「什の掟」を定めており、この言葉で結んでいます。
社会、組織、国、世界において人はそれぞれの立場があります。人として生きていくには絶対的に守るべきルールがあります。その躾として“ならぬことはならぬものです"の言葉はわたしにとりとても腑に落ちます。
2022年 2月 28日 姫路赤十字病院 院長 佐藤 四三
最近の私たち日本人の多くは修理の心を失いつつあるのではと感じられることが多々あります。家電製品が壊れると、修理するよりも買った方が安いと店員に言われ、新しい製品を買ってしまう。自動車などが壊れるとパーツごと取り換えてしまう。家も最近は造りが弱々しく、古くなれば直して使うよりは建て替えてしまう。現代の社会から修理という文化が次第に消えつつあるようです。
私が子供のころは、田舎であったことも関係していると思いますが、鍋に穴があくと定期的に巡回してくる修理屋さんに穴をふさいでもらい、また使用していた記憶があります。ズボンの膝が破れた時はパッチを当てて修繕していました。各家には修繕のための道具とか、小物がたくさん用意されていました。話によると江戸の町の生活を見た外国人が、物を最後まで大切にして無駄なく使用しているが、人々の生活は明るく、清潔感があり大変驚いていたようです。日本人には本来物を上手に使い、無駄のない合理的な生活をする文化が備わっていたと思います。その一つに修理の心も含まれていたのでしょう。
壊れてしまったら、新しいものに買い替えてすっきりすればよいといった風潮ができてしまった現代をどのように考えればよいのでしょうか?物質であるならば、取り換えるのも、合理的であり、経済的であるのかもしれません。確かに経済の成長には寄与しているのでしょう。しかし健康のように新しいものに代えられない時、
「これで人生おしまい」
というわけにはいきません。健康を害しても修理すれば大丈夫と考えれば、人生に希望が持てます。また生活する上で人間関係は大変重要ですが、いつもいつも良好な関係であるとは限りません。仕事では人間関係の悪化は必ず伴うものです。悪化したからと言って切り捨てるわけにもいきません。人間関係の修復は大変困難ですが、修理の心を持って改善する必要があります。
日本で使い古された自動車、自転車などが船に山積みされて東南アジア諸国に輸出されています。そこでは人々が使える部品を取り出して、それを集め修理して新たな自動車なり、自転車なりを造り、使用しているのです。その姿は実に明るく、堂々としており、暗さは微塵にも感じさせません。誇りすら感じさせられます。おそらく江戸時代の日本人もそのような生活をしていたと思います。
私たち日本人が本来備えている修理の心を取り戻し、物質面での生活、精神面での生活を、もう一度見つめなおす必要があるのではと考えます。人々の心にゆとりが取り戻され、豊かな生活がおくれるのではないでしょうか?
2013年 8月 12日 姫路赤十字病院 院長 佐藤 四三