院長徒然日記

院長徒然日記

No.47 阪神・淡路大震災での姫路赤十字病院救護活動
当時の赤十字救護班の活動の様子
当時の赤十字救護班の活動の様子
“1995年1月17日午前5時46分”今でもこの時を鮮明に思い出すことができます。地響きとともに経験したことのない強烈な揺れ、まだベッドの中におり突然起こされました。家が倒れるのでは?体が押しつぶされるのでは?家族は?想いが巡るのみで体を動かすことはできませんでした。長い時間と感じつつも、暫くすると身の回りの当面の不安は解消されました。冷静になり直ぐにテレビをつけましたが、地震の情報はなかったと記憶しています。病院へ電話をかけて何事も起こっていないことを確認できたものの、そのほかの情報は得られませんでした。当時わたしは当院の救護第2班の班長でしたので、近隣で大きな地震が起きたものと判断し、救護活動に出動あるものと考えて当面の着替えをもって普通どおり病院へ出勤いたしました。

あれから20年、風化させないためにも姫路赤十字病院救護活動の責任者として、当時わたしたちの病院の救護活動がどのように行われたかを、いろいろな資料を紐解いてまとめることにいたしました。その一部を私の記憶も交えてここに紹介します。

地震発生当初、病院は短時間停電があったものの、自家発電は稼働することなく、呼吸器など医療機器の使用に混乱はありませんでした。建物自体の損傷もなく、入院患者、職員も平静で通常通りでした。
8時30分、始業時間になり、兵庫県赤十字支部に連絡するも詳細な情報は引き続き得られていませんでしたが、9時ごろになりテレビ報道で予想外の被害状況であることを知り、当院では自主的に救護班の編成、運行スケジュール、医療救護物品の調達を行っていました。兵庫県赤十字支部には十分な情報が入っておらず、私たちの救護班は待機命令のままでした。午前11時にやっと支部より出動要請があり、午後0時10分に第1班、続いて第2班が出動、翌日も次々と出動しました。中でも第3班は現場被災者からの悲痛な要請が直接あり、支部からの出動命令を待たずして出動しており、当時では画期的な判断でした。当院からは3月18日まで救護班を派遣し、医療チームが30班延べ人数179人となりました。また医薬品、医療器具、食料、医療品、毛布などを救援しております。職員のみならず日赤学級の生徒たちも、神戸大学病院から転院し一時ではありますが同じ時を過ごし、その後神戸へ再転院した児に見舞の作文を送ったり、お小遣いを持ち寄り義援金としたり、看護専門学生は卒業式に合わせて義援金を寄託しています。病院ボランティアの人も朝早くからおにぎりを作ってくださり、救援物資の一部として朝5時半に出発する救護班に託されていました。

病院本体は各県支部からの応援部隊の中継基地となり支援いたしました。また被災地から救急患者が救急車やヘリコプターで続々運び込まれ、治療にあたるなど後方支援としての役割をしました。地震によって当院を受診された方は、226名(入院59名、外来167名)でした。手当の甲斐なく亡くなられた方を臨時の遺体安置所として講堂に収容いたしましたが、慣れない姫路の地に残された遺族の気持ちを考えると、その状況はいたたまれないものとして深く記憶に残っています。 わたしは第2班班長として出動するものとして心の準備をしていましたが、当時の院長より、病院に残り後方支援するように命じられ現場に出動することはありませんでした。搬送されてこられる救急患者の治療に専念していました。赤十字の職員として現場に赴きたかったと今でも心の隅に想いは残っています。

日本赤十字社をはじめ、当院も含め全国の赤十字病院は阪神・淡路大震災を経験し、これを教訓とし改善の努力をしています。東日本大震災では被災者から「赤十字のマークを目にして安心した。」の声が聞かれるまでになり、これを励みにさらに前進するように取り組みます。

2015年 1月 17日 姫路赤十字病院 院長 佐藤 四三